nekojiro612’s diary

孫の小遣い稼ぎの空売りマン

なぜ私は小説を書くのか?

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なぜ私は小説を書くのか?

 

ジョン チーバー 

村上春樹 訳   MONKYより転載


人生も60代後半にさしかかってから、このような決定版の短編集を出版することは、一人のアメリカ人の作家の目には、伝統的かつ威厳に満ちた行事のように映るのだが、この私の短編集に収められたおおかたの作品が下着姿で書かれたと言う事実は、決してそのことの価値を損なうものではないはずだ。

 

 なにも私がだらしない生活を送っていたというわけではない。ハロルドロスが「ニューヨーカー」誌の編集長を務めていた時のことを覚えている人はもうほとんど生存していないだろうが、私はその数少ない一人だ。ロスの編集上の疑問はまさしくエキセントリックなものだった。ある短編小説の中で、私の設定した登場人物は仕事場から家に帰ると、夕食の前に別のスーツに着替えた。ロスはそのゲラの余白にこう書き記した。「おい、これはなんだ?チーヴァーはスーツを一着しか持っていない人間のように私には見えるのだが」。

彼はまさに正しかった。彼が支払ってくれる原稿料では、私は実際のところ一着のスーツしか買えなかったのだ。朝に私はそのスーツを着てエレベーターに乗り、窓のない地下室の仕事部屋にいった。そこでスーツをハンガーに掛け、日が落ちるまで執筆し、それからまたスーツを着て自分のアパートメントに戻った。そんなわけで私の短編小説の大半はボクサーショーツ姿で書かれている。

 

 短編集は、昨今の小説リストの中ではほとんど余計者扱いされているみたいだ。そのリストに溢れかえっているのは愛の園であり、エロチックな馬鹿騒ぎであり、淫らな古代の家族史だ。しかしながら我々が経験によって支配される限り、そしてその経験が強烈さと挿話的性質によって特徴付けられている限り、我々は短編小説というものを文学の中に含め続けるだろうし、言うまでもないことだが、文学がなければ我々は滅びてしまうだろう。 F R リーヴァイスが述べているように、文学とは文明化された人間の第一の特性なのだ。

 誰が短編小説を読むのか、とあなたは尋ねるかもしれない。歯医者の待合室で、治療椅子に呼ばれるのを待つ男女によってそれは読まれる。あるいは大陸を横断する飛行機の中で、我が国の東西両岸の間に生じる長い時間を、あほらしい下品な映画で潰すかわりに、それは読まれる。眼識と知見を持ち合わせた男女ーー彼らはナラティブフィクションというものは我々が互いを理解し、時として面くらわされる我々のまわりの世界を理解するために有用なものだと感じているようだーーによってそれは読まれる。私はそのように思いたい。

 

 長編小説は確かに立派なものだが、そこではたとえちらりとではあっても、審美性と道徳的適合性との間の神秘的連結を保つ「古典的統一性」に目配せすることを求められる。しかしそのような頑固に維持される古風さのせいで、我々の今の生活の持つ新奇さがそこから排除されるとすれば、それは残念なことである。この新奇さはあるものにとっては映画「スターウォーズ」を通して知られているものだし、あるものにとっては野球の試合後半における野手のエラーによって引き起こされるメランコリーを通して知られているものだ。このような新奇さを追求することによって、現代絵画は風景画や静物画ーーそして最も大事な裸婦画ーーという言語を失ってしまったように見える。そして現代音楽は、我々が記憶の中でとても深く馴染んできた、リズムと調和から離れてしまった。しかしながら小説はいまだに物語(ナラティブ)をしっかり保持している。ストーリーというものを。これは命を賭けて守るに値する。

 

我が敬愛する同業者たちの書いた短編小説の中にーーまた私自身が書いた少数のものの中にーー旧来の審美性を混乱させるようなものを私は見出す。例えば夏の別荘やら、一夜の情事やらなくなったキーリングやらを。我々は遊牧民族ではないけれど、我々の偉大なる国家の精神には、それを匂わせるという以上のものがある。そして短編小説とは、文学における遊牧民のようなものだ。

 私が自分の心の窓から目にする郊外住宅地の通りの眺めが、放浪する者や、孤独に親しむ誰かの心に届けば良いのだが、と私は思っている。深く心を動かされるノスタルジアやヴィジョンや愛の風景がそこに展開するが、それらのどれも30年以下の歳月しか経ていない(目にするほとんどの樹木を含めて)。そこにはプランテーション時代の南部からもたらされた白い円柱があり、エリザベス朝の英国からもたらされたソルトボックスハウス(17世紀から19世紀初期にかけてニューイングランドによく見られた、前が二階建てで後ろが一階建ての家)があり、フランクロイドライトと彼の未来像を反映した扁平な屋根の家(そこで我々は太陽熱暖房や、静謐で広々とした室内や、地上の平和を享受することができる)がある。

 

 その敷地は1エーカー半(約6千平米)。庭には花や野菜が育っているが、そこかしこにトマトではなく、羽を広げたような葉のついた大麻草を支える、丈夫な支柱が目につく。このような見事に健全そうな家庭生活の中にあって、主要な収穫は実に有害なドラッグなのだ。そしてハートショア家の庭の洋服掛けに吊るされているのは何あろう、一連隊をハイにさせる十分な量の乾燥マリファナだ。

 忘れっぽいというのは、人生の神秘性のある部分をなしているのだろうか?もし私がハートショア氏に、大麻の収穫について言及したなら、中国文明の偉大さは阿片の生み出す幻想の上に強固に打ちたてられているのだと彼は語るだろうか?でもハートショア氏に話しかけるのは私ではない。それは隣家に住む、半端なく禁欲的なチャーリーディルワースの役目だ。彼は芝生の前庭に「禁煙」の札を掲げている。そして彼のマリファナについての激烈な反感は、逆行する脅迫の如きものへと論理的に導かれていった。

 

 二人が言い争っているのを、私はある土曜日の午後遅く、息子たちとタッチフットボールをして帰宅したときに耳にする。日は暮れかけている。季節は秋だ。チャーリーの声は大きくてよく通り、関心をもつものの耳にはすべてが明瞭に聴き取れる。「おたくの犬をうちの芝生に入れないでくれ。ステーキは家の中で焼いてくれ。レコードプレーヤーの音をもっと小さくしてくれ。日が暮れたらプールのフィルターを切ってくれ。窓のシェードを下ろしておいてくれ。そうしないと君がマリファナを栽培していることを警察に通報するからな。うちの妻の叔父が今月は判事の職についているから、君は麻薬違法所持で少なくとも6ヶ月はぶちこまれることになるぞ。」

 彼らは別れる。日が落ちる。あちこちで主婦たちが初霜の降りることを案じて、鉢植えの植物を中に取り込む。その一方でエリザベス朝の、ナンタケット風の、フランクロイドライト風の煙突は、それぞれに薪の煙の素敵な香りを放ち始める。そんな情景を長編小説に書き込むことはできない。