nekojiro612’s diary

孫の小遣い稼ぎの空売りマン

鯨  バリー ユアグロー

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新たな鉛の静けさが街に広がった。ずるずる続く毎日、家にこもる毎晩。静けさは当初、救急車の不吉な、悲痛なサイレンによって破られた。必死の積荷を救急車は運び、病院へ向かって街路を疾走した。

 やがて救急車はみな壊れた。あるいは汚染されて、放棄された。

 現在の静けさから、窓を貫いて、この世のものとも思えぬ、海の響気がするヌオオオオという声が届く。輸送の仕事に抜擢され、運び込まれた鯨たちである。鯨は感染しないことが判明したのだ。

 雨が降っていなければ、わたしたちは怖々と慎重に、すっかり大人しくなった大都会と、居並ぶ摩天楼の見える屋上に上がる。眼下に目を向ければ、深き海からやってきた巨大な生き物たちが大きな尾ひれを操り、新たな葉をつけた街路を進んでいくのが見えるのだ。脈打つ鼻には赤いランプが縛りつけられ、広々と大きい背中に据えた改造ストレッチャーに患った者を乗せて救急車に運ぶ。この世ならぬその原始の叫びは、いまや何とも快い。恐ろしくも心地よく、おぞましくも胸に沁みる、、、知恵も言葉もない自然が、無責任で無力な、苦しむ人間たちを精いっぱい助けてくれる。

 

 日によっては、己の勇気を試すべく、不安を抱えつつも私たちは公園へ散歩に行く。すると、巨大な、力尽きた死体が道端に放り出されているのが目にとまる。過労で息途絶えたのか、それとも、深き海から遠く離れた環境の激変に対応できなかったのか。若い連中がその広々とした背中によじ登っては、勝ち誇ったポーズでセルフィーを撮ったが、やがて警官に下りるよう命じられた。

 

 海から連れてこられた鯨たちは、港の外に設けられた囲いに収容される。私たちの多くが、いずれ感謝の気持ちを示しに訪問しようと誓っている。だが毎日の危険、毎週の危険は、いまだあまりに私たちとともにある。だから私たちはひとまず窓辺に座り、恐怖が刺さった心に、辛く切ない、悲しみのごとく胸を焼く感謝の念を抱えて、ヌオオオオという声を聞き、夕暮れが街路に戻ってくるなか、赤いランプに照らされた大きな生き物が、暗くなっていく木々の下を黙々と進むのを見守る。



  『鯨』 バリー ユアグロー   柴田元幸 訳  MONKYより転載