nekojiro612’s diary

孫の小遣い稼ぎの空売りマン

身体芸の修行とは何か?

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 凱風館の思想と実践も習合的なものだと僕は思っています。エマニュエル レヴィナスをはじめ、僕がこれまで学んできたヨーロッパの哲学と日本の伝統的な武道のエートスが一つに習合している。ただ、これは僕が頭で拵えたものではありません。僕の場合は、習合が既に個人の精神と身体において実現していて、それに後知恵で、「なるほど、これは習合だ」と膝を叩いた、、、という順序でことが進んだからです。

 

 25歳のときに、多田先生に出会って、この人を武道の師としようと決意し、30歳の頃にレヴィナス先生に出会って、この人を哲学の師としようと決意した。二人の師に相次いで出会ったことによって、僕の人生の骨格の部分が決まりました。以後40年以上を僕は倦まず弛まずこの二人の師の足跡を追って、「修行」をしてきています。

 

 合気道は「修行」でいいだろうけれど、哲学を「修行」するというのはちょっと違うんじゃないか、そんな言い方はしないんじゃないかと怪訝な顔をする方がおられるかもしれませんけど、僕の場合はやっぱりこれは「修行」なんです。僕はレヴィナス哲学を「学んだ」とか「研究した」わけではなく、やはり「行」として実践したのだと思います。

 

 はじめて合気道を稽古し始めたときに、いったいこれはどのような身体の能力を開発するものなのか、僕にはさっぱりわからなかった。僕は、ストリートファイトで強くなりたくて入門したのだけれど、先生は「蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘らず」と教えている。勝敗強弱巧拙を論じないでいったい何を稽古しているのか、僕にはまるで理解できなかった。でも、師を信じて、言われる通りの稽古を積んだ。すると何年か稽古しているうちに、それまで感知したことのなかった身体部位を感知し、それまでしたことのない身体運用ができるようになっていた。稽古した後になって、稽古によって自分の心身が変容した後になって、自分が何を稽古してきたのが事後的、回顧的に了解される。修行はそういう順逆が反転したかたちで進むということがわかりました。自分が何を稽古しているのか、何を達成し、何を獲得しようと稽古しているのかは、長く稽古してみないとわからない。そういう非論理性が修行の骨法です。

 

       内田 樹 『日本習合論』より転載

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https://youtu.be/G88Tz3LdLdo

『究極のバリュー株投資法 完全版』デモ画面です。

5202の玉操作を身体運用に直結させる方法論なんですが、まあたくさん場帳を書いて(5万枚ぐらい)やってるとそのうち意味がわかります。

いくらIQが高くても、馬鹿は馬鹿だから(脳がダメなの)やらんと上達しないよ。

 

相場で儲からない人は『脳がダメ』だからですよ。それを治すにはこれですね。